人生の転機(2)

思いのほか長くなってしまったので、続き。

そんなこともあって、とにかく舞台に上がったときに
きちんと弾いてる姿を見せてあげたくて、
必死で毎日練習しておりました。

初めての舞台は、11月。
今でも覚えています。プログラムは、こんな感じ。
シベリウス 交響曲第2番(←これはもちろん降り番
ビゼー カルメン組曲より抜粋
ヴェルディ ナブッコ序曲
結局、譜面解読能力の方は、音符を読みながら弾くまでのレベルにはならず、
最終的には暗譜(つまり丸暗記ですね)で舞台に立ちました。
ピアノ上がりだからこそ、できたことかもしれませんが。笑

もちろん、母親の病気のことは知っていたし、
それがあんまり芳しくないことも。
だからこそ、自分が一生懸命に何かをやることで、
その成果を見たいということが、生きるモチベーションに
つながるんじゃないかと思って、とにかく必死でした。
あの頃は、家中がそんな空気で、
今思えば、とにかく家族みんなが極限状態で生きていたのでしょう。

舞台は、パートに人がいなかったこともあり、
1年生でトップサイド、つまり最前列に座らせてもらえました。
(ここから、4年生になるまで1プル以外に座ることはないのですが、
 そのお陰で度胸だけはついた気がします。)
両親がそろって、その舞台は観に来て、
母もとても喜んでいたそうです。
それを聞いて、次の5月の演奏会には全曲乗りになることもあり、
またがんばろうと思ったものでした。


その後、1月に倒れて救急車で運ばれ、
2月にはがん治療で有名な横浜の病院に移り、
3月に一度、危険な状況に陥ったものの、乗り越えて戻ってきました。

そして、5月、最後にこどもの日を家族みんなで病室で過ごした後、
意識がない状態が続くことが多くなり、
その年の母の日の前日、11日の夜に、母は亡くなりました。
それも、子供たち全員に連絡がいき、到着する前に、
息を引き取ったそうです。
最後に苦しんでいる姿を、子供たちに見せたくなかったのでしょう。
長い闘病生活の後、母はとても安らかな顔をしていました。



それは奇しくも、次の私の本番の前の週、
私が初めてメインの交響曲を舞台で演奏する、その演奏会の、
最後の練習の日の夜でした。

母が最後に聴きにきた、私が演奏できなかったプログラム
シベリウス 交響曲第2番
この曲は、いずれ絶対に演奏しよう、と固く誓ったときでもありました。
私の音楽と、母との最後のつながりの曲。