父の厳格、母の愛

…壮大なタイトルをつけて、若干後悔しなくもないですが。笑



後輩5人は、さすがびよら!と言いたくなるほど
独特のキャラの子が多かった。笑
法学部の元サッカー少年、フランス語のふんわり男子、
ドイツ語の不思議少女、経済のおしとやかさん、
フランス語の芸術家肌男子。
プラス、先輩たちを見て悟りました。
「びよらは基本的にまとまらない。」
あ、でも、今でもものすごくいい後輩に恵まれたな、と思ってます。


私は大学からびよらを始めたので、このときようやっと1年。
もちろん、3歳とか、中学生からとか、
昔から楽器を弾いていた人には、音色の引き出しの数など
技術ではまったくかないませんが、これだけは自負がある。
『大学から楽器を始めた人に、教えやすい』
どう考えるか、どういうところでつまずくか、
最近通ったばかりの道なので、おおよそ全部わかっているわけですね。


加えて、この時期に基礎練に目覚めました。笑
元ピアノ弾きらしく、3連符が正確に取れないという問題を
解決するためだったのですが、これがやり始めるとはまる。
後輩を集めて、一緒に基礎練をしながら、
その音程が違う!とか、リズムが甘い!とかやってました。
(元ピアノ弾きというのが幸いして、耳はそんなに悪くなかったのです。)

11月に秋の定期演奏会(そういえばR.シュトラウス死と変容」がメインでした…)を終え、
4年生は卒団、3年生はすでに不在、
つまり私(2年)と、後輩(1年)×5人
という、おそらく当時最弱パートになることが確定。
なので、この時に私は決めました。

●選曲で、「弾けない」という理由で切らない。
 (技術的に無理です、というパートも多かったし、コーチの先生が止める場合もあった。)
●「びよらは弾けなくても仕方ない」という先入観をなくす。
 (初心者ダラケですから。こういうオケも多くないですか?)

後輩たちは、至極まじめに基礎練も、曲練もしていましたし、
弾けるということが面白くなってきていたようでした。
なので、この子たちの成長を、私が信じなかったら、
誰が信じるんだ、と。
一緒に、より伸びていけるように、自分もがんばる、という自戒もこめて。

パートに対して決めたこともあり、
◎練習の出席は絶対。合奏以外の時間に、パート練もする。
プルト(席順)は最初に決める。ただし、休んだらその分下げる。

これだけやれば、上手くならないわけがないだろう、と。
出席に関しては、私も授業、バイトと忙しいけど、
それ以上ってことはありえないだろうし、
授業もバイトも調整できる。体調管理も自己管理のうち。
冠婚葬祭などの特別な理由以外認めない。と。
社会人ならある意味当たり前…かもしれませんね。

あ、でもこのせいで、39度熱出したある後輩が、合奏きちゃったんですが。
帰れって言ってもきかず、帰り道に意識なくしたとか。苦笑



せっかく縁あってオケに入って、楽器を始めたのだから、
きちんと4年間で、何かをつかんでほしかった。
合わせるとか、アンサンブルすることって楽しいんだよって、
音がぴったり合った感覚とか、大きなひとつになる感覚とか、
言葉では言い表せない喜びを味わってほしかった。



先輩としては一人だったので、父役も母役もやるはめになったのですが、
あれだけ一人弾きをさせ(笑)、音程やリズムを徹底的に直され、
厳しいことも色々言ってきたのに、
ちゃんとついてきてくれた後輩たちには本当に感謝。
もちろん、全員がすばらしい戦力になってくれて、
およそ半分がエキストラのパートでも、きちんと
「この団の音」
になっていたと、自負しています。

風船の糸

さて、母の葬儀の数日後、演奏会は行なわれました。
トップの先輩に、「今日は来ないと思ってた」と言われながら。
(実は、私(=トップサイド)が来なかった場合の席順まで、
 考えていてくれたらしいのです。感謝。)
父は、ひとりで聴きに来てくれました。それから、卒業までずっと。
父は父なりに、母との絆をここに感じていたようです。


不思議なことに、悲しみにくれるという感じではなく、
まるで風船の糸が切れたかのように、という表現がぴったりの、
地に足がつかない、自分の体重がなくなってしまったのではないかと
思ってしまうほどのふわふわした空虚な時間が続きました。
授業、バイト、オケ…と毎日が忙しかったことだけが、
私を現実につなぎとめていた、というのが正しいのでしょうか。


死んでしまったら、今を生きることはできないんだ。
という現実。
悲しいという感情が出る前に、自分の中の一部がごっそり削られてしまった感覚。


さて、そんな中、私には当時、一つ下に後輩が5人(!)いました。
今思えば、「生きる」ということにしがみつくためかもしれませんが、
次第に後輩の指導に没頭していきます。

彼らは全員初心者だけど、必ず伸びると信じていたし、
どんな曲がきても、絶対に乗りきれるという確信がありました。
…なぜ、の理由は次回。笑

人生の転機(2)

思いのほか長くなってしまったので、続き。

そんなこともあって、とにかく舞台に上がったときに
きちんと弾いてる姿を見せてあげたくて、
必死で毎日練習しておりました。

初めての舞台は、11月。
今でも覚えています。プログラムは、こんな感じ。
シベリウス 交響曲第2番(←これはもちろん降り番
ビゼー カルメン組曲より抜粋
ヴェルディ ナブッコ序曲
結局、譜面解読能力の方は、音符を読みながら弾くまでのレベルにはならず、
最終的には暗譜(つまり丸暗記ですね)で舞台に立ちました。
ピアノ上がりだからこそ、できたことかもしれませんが。笑

もちろん、母親の病気のことは知っていたし、
それがあんまり芳しくないことも。
だからこそ、自分が一生懸命に何かをやることで、
その成果を見たいということが、生きるモチベーションに
つながるんじゃないかと思って、とにかく必死でした。
あの頃は、家中がそんな空気で、
今思えば、とにかく家族みんなが極限状態で生きていたのでしょう。

舞台は、パートに人がいなかったこともあり、
1年生でトップサイド、つまり最前列に座らせてもらえました。
(ここから、4年生になるまで1プル以外に座ることはないのですが、
 そのお陰で度胸だけはついた気がします。)
両親がそろって、その舞台は観に来て、
母もとても喜んでいたそうです。
それを聞いて、次の5月の演奏会には全曲乗りになることもあり、
またがんばろうと思ったものでした。


その後、1月に倒れて救急車で運ばれ、
2月にはがん治療で有名な横浜の病院に移り、
3月に一度、危険な状況に陥ったものの、乗り越えて戻ってきました。

そして、5月、最後にこどもの日を家族みんなで病室で過ごした後、
意識がない状態が続くことが多くなり、
その年の母の日の前日、11日の夜に、母は亡くなりました。
それも、子供たち全員に連絡がいき、到着する前に、
息を引き取ったそうです。
最後に苦しんでいる姿を、子供たちに見せたくなかったのでしょう。
長い闘病生活の後、母はとても安らかな顔をしていました。



それは奇しくも、次の私の本番の前の週、
私が初めてメインの交響曲を舞台で演奏する、その演奏会の、
最後の練習の日の夜でした。

母が最後に聴きにきた、私が演奏できなかったプログラム
シベリウス 交響曲第2番
この曲は、いずれ絶対に演奏しよう、と固く誓ったときでもありました。
私の音楽と、母との最後のつながりの曲。

人生の転機(1)

…なんて、いくつもあるのでしょうけど。
いや、むしろ日々の過ごし方そのもの、すべてが「転機」なのかもしれないけど。


私の大学時代の、最も大きな事件と呼ぶのがふさわいしいもの。
それが、「母の死」でした。
これを語らずには、この先が語れなくなってしまいます。笑
ちょっと、重たい話かもしれませんが…


私が17歳のとき、人間ドックで、初期よりももっと前の段階の
がん細胞が見つかりました。
医療はものすごく進歩していて、その程度の小さいものであれば
内視鏡で、入院もなしに手術ができてしまうほどのもの。
その時は、日帰り入院で、けろっと帰ってきました。

その翌年、検査でがん細胞が再度発見されました。
今度は開腹での手術。
私が18歳の夏休みのことでした。
その手術の日は、2人しか立ち会えないことになっていたので、
通常であれば長女の私が立ち会うべきだったのですが、
ちょうどその日は、受験生らしく学校で模試があったため、
結局は父と、2歳下の弟が立ち会いました。

…実際はその時、すでにリンパにも転移しており、
余命3カ月を、宣告されていたそうです。
それは、母が死んだ後、奇しくも葬式での父のスピーチで知りました。

母は非常にたくましく、4人の子供を育てあげ、
優しく厳しい母であり、家事を完璧にする主婦であり、
その上で、睡眠時間を削っても、趣味のパッチワークに没頭するような
とにかく"一生懸命"に生きる人でした。

私がピアノを習いたいと言い出し、それがすんなり通ったのも母のおかげ。
ちなみに、その後は習い事(塾でさえ!)をしたいと言って
すんなり通ったためしがありません。笑
うちでは、親にお金を出してもらうとき、それがいかに必要か、
それにお金をかけることでどんないいことがあるか、
必ず親にプレゼンし、説得しなければならないのがルールでした。
(4人もいたら、全員に同じことはさせられないですね。)

そんな母は、私が大学に入学したことを喜び、
また、オーケストラに入ったことも喜んでくれました。
なかなか生でオーケストラを聴きに行く機会はない、と言って。
今思えば、いつ尽きるともわからない自分の命が、
1日でも長くもって、子供の成長を見守れることが、
本当に嬉しかったことだったのでしょう。

家から大学が遠かったこと、授業を山ほど取っていたこと、
部活にバイト…と、屋外で忙しくしていたため、
大学以降はあまり家にいることもなく、よく「鉄砲玉」
(出ていったら戻ってこない)と言われたものです。笑
今思えば、もっと一緒にいてあげれば良かったのかな。
と後悔しても仕方ないので、そんな私の元気な姿が見られて
きっと満足だったのだろうと思うしかありませんが。

「アルト」

話が飛びまくりですが、私の合唱人生は、基本的にアルトでした。
実際、コロラトゥーラ・ソプラノ、と呼ばれる、
モーツァルトオペラ「魔笛」の、かの有名な「夜の女王のアリア」が
歌える音域まで、訓練すれば出るとは言われたのですが。


中学に入って、初めての音楽の授業で、
パート振り分けられますよね。
男の子で、声変わりをすでにしている子はバスに行ったりとか。
そこで、女声はたいていソプラノが人気なのですね。
メロディーが歌えるということと、アルトはわけがわからないから。笑
ちなみに、私は「争うのも面倒くさい」という理由で、アルトに落ち着きました。
思えば、その時に、ヴィオラを選ぶ素養はできていたのですね。


高校の合唱部でも、同じ現象が起き、
結局、ずーっとアルトに。
私の名前の頭文字「A」と、アルトの頭文字が同じだったこと、
表向きは目立たないのに、やり方次第では絶大な音楽効果が
得られるという、創意工夫がやりたい放題なところが
ものすごく気に入ったこと、
高音があまり得意でないこともあって、
次第に「中音域」にはまっていきました。


…今でも、たぶんこれを1stヴァイオリンでやったら
総ツッコミだろうなぁ、と思うようなことも、
結構やっちゃってます。笑
指揮者に指摘される、ギリギリのところで戦う面白さ。
そして、メロディーを演奏しているあの人々が、
あれだけ自由に歌えるのは絶対自分たちのお陰だ!
という勘違いも、常時励行中です。笑


この自由さが、きっと性に合っているのでしょうね。
もちろん、色々な楽器を演奏したい人がいるからこそ、
こんな性分の私が生かされているわけで、
それは本当に感謝しています。

負けず嫌い

さて、私の入部当初のびよらパートは、
4年生=不在
3年生=2人
2年生=2人
1年生=1人←私
こんな状態だったので、本番も半分くらいはエキストラ(お手伝い)さんでした。

で、大学オケにはありがちなのですが、
びよらって、ヴァイオリンからあぶれた(失礼)人とか、
ジャンケンで負けた人とか、騙されて入っちゃった人とか、
とにかく(弾けなくても)目立たなくて済むとか、
そういう人が多いわけです。
…いや、当時の先輩がそうだったわけでは決してないのですが。

「びよらは弾けなくても、まぁ仕方ないよね」

初心者ばっかりだし。
と言われるのがものすごく嫌だなぁと思いました。

ちなみに、先述のとおり、私には時間があまりありません。
なので、昼休みにご飯を早く食べて練習、
休講になったら練習、放課後に練習、
とにかく毎日5分でいいから楽器に触る。
うまくいけば1時間練習できる日があり、
短ければ5分。
平均しても、1日30分くらいだったと思います。

そして最大の難関。
『譜面が読めない…』

ずっと、ピアノを弾いていたので、音感は悪くなかったのですが、
ヴィオラの“ハ音記号(アルト記号)”というやつは、
メジャーなト音記号ヘ音記号からそれぞれ“1オクターヴと1音”違う譜面です。
この“1音”がすごく厄介で、
私はト音とヘ音が読めるだけに、譜面がちゃんと読めるようになるまで
実に1年間かかりました。
(なので、生まれて初めてのオケの本番は、全部暗記。今は無理ですが…)

とにかく、先輩にはかわいがられ、練習のかいもあってか、
2年生になる頃には、そこそこ弾ける子という扱いになっていました。

とにかく、同期の経験者たちと肩を並べても、
自分が恥ずかしくないように、なりたかったのです。

初心者と経験者

さて、私はオーケストラを始めたのが大学生になってからでした。
つまり、ヴィオラという楽器を始めたのもその時。
オーケストラ歴=ヴィオラ歴なのですね。

私には、同じ楽器の同期がおりません。
ヴァイオリンの同期が、5人。うち4人が経験者。
人数少ない割に、これだけ経験者がいるというのも珍しいのですが。
私がまず楽器の持ち方、弓の持ち方、構え方…から始めているときに、
彼らはもう本番で演奏するわけです。
4月入学で、5月の本番でしたね。

それはもう、仕方のないことなのだけど、
悔しいというか、負けず嫌いの私のこと。
それなら、絶対何かしらのことはやってやる、と思いました。



続きを話す前に、少しだけ私の当時の環境をお話しておくと、
◎大学まで片道1時間半の通学
◎外国語学部(=つまり、必修の授業だけですでにコマ数が多い)
◎教職を取っていた(結局、教育実習を残すのみまで単位取った)
◎1日あたりの平均授業数が4.5コマ(週2日は1〜5限までフル)
◎放課後、土日の空いている時間にはバイト(オケはお金がかかります)
◎お布団に入っての平均睡眠時間は、1日3時間くらい
◎卒業まで、取った授業に関しては一つも単位落としてません
…えーと、ごめんなさい今はこんなことできません。
若いからこそできたのでしょうね。笑